月刊誌『諸君!』平成11年12月号に
「特集1970年11月25日『三島事件』」の一環として
「著名人100人アンケート あのとき、何を。
今は…」という企画があった。
各人が事件当時、何をしていて、どのような感想を持ち、
今はどう考えているかを問うアンケートだ。
その中に「著名人」ではない私の回答も、何故か混ざっている。
「雷鳴の如き啓示」と題する拙文だ。
この拙文を、これまでも様々な場面で紹介してきた。
主に私自身が自らの「原点」を回想し、銘記するために他ならない。
同じ趣旨で、ここに改めて引用しておこう。
「当時、私は中学2年生。
学校の給食時間にクラス担任が教室のテレビをつけ、
皆で昼のニュースを見た。
文学に全く無縁な田舎中学生だった私は最初、
アナウンサーが『作家の三島由紀夫が…』と言ふのを
『サッカーの三島…』と聞き違へた。
われながら随分お粗末な話だ。
しかし事件のニュースを聞き終へた時、
全身をかつて経験したことのない強烈な戦慄が走り抜けてゐた。
担任は元文学少女だつたらしい女性教師で、
口を極めて事件を罵倒した。
これも衝撃的だった。
生命尊重のお題目は小学校の頃から聞き飽きてゐる。
だが今、目の前で、公の為、日本の為に何ごとかを訴へようとして
掛替へのない命を投げ出した人間がゐるのだ。
まづ虚心に一旦はその訴へに耳を傾け、
しかる後に当否善悪を判断するのが、
人の命を尊び重んずる者の態度ではないのか。
そんな根深い違和感を覚えた。
この違和感の奥には、特攻隊の生き残りだつた亡父の俤がちらつく。
父は幼い私に、
特攻隊員の遺書を吹き込んだレコードを繰り返し聴かせた。
それは不思議と聴き飽きるといふことが無く、
人の命の哀しさと崇高さを、肌身に沁みて最も激しく教へてくれた。
そんな形で生命の尊厳を学んだ私にとつて、
あの事件は時代の病弊と、それを超克しようとする志の1つの型を、
雷鳴の如く啓示するものだつた。
あの日のことは決して忘れない」